〈当番校企画 シンポジウム1〉美学と美術批評
概要
美学と美術批評の関係については、様々な考え方があり得る。美学が、美的価値がいかに成立するかを問うことを一つの目的としているとすれば、一定の価値観をもとに作品を評価する営みとしての美術批評は、その立場そのものが問われるべきものとなる。その場合には美学と美術批評は、いわば非連続的な関係にある。しかし、具体的に作品を評価するための価値観の支えを美学思想に見いだすという立場、考え方もあるだろう。また、美術批評の実践を通じて美学思想を鍛え上げていくということも可能性としてはあり得る。その場合には、美学と美術批評は、連続的な関係にある。この両者の関係をとりあげることは、ことさら新しいことではない。しかしそれは、東京藝術大学という芸術実践の場において美学会全国大会を開催するにあたって、実践と学問の接点を探るという意味で有意義なことである。
このシンポジウムは、美学思想への関心と美術批評の活動をあわせ持つパネリストが、両者の関係という観点から自らの活動について報告し、相互の立場について意見を交わすことによって、美学と美術批評の関係が、現在いかなるものであり得るかを探ることを目的とする。
講演
登壇者 | 篠原資明(京都大学) | 差異の過剰の行方 |
谷川渥 | 美学と批評 | |
布施英利(東京藝術大学) | 美術批評と美術制作の比較 | |
本江邦夫(多摩美術大学) | 記述と意味 | |
司会 | 川瀬智之(東京藝術大学) |
日時・会場
日時 | 2013年10月13日(日) 15:30-17:30 |
会場 | 音楽学部5号館 5-109 |
講演要旨
差異の過剰の行方
篠原 資明(京都大学)
現代芸術のさまざまな例から、芸術の基本的なありようをあぶり出してみること、それこそ当初から、わたしのとった戦略でした。差異の過剰とは、そうしてあぶり出された基本的なありようを名ざす概念でした。この過剰は、現在の観点からする感性過剰性、過去の観点からする痕跡過剰性、未来の観点からする解釈過剰性からなります。のちに提唱した交通論の立場から、過剰の交通、もしくは異交通といわれるのも、同じありようを指ししめします。
現代芸術の現場に美術批評家として、積極的にかかわるようになったのは、1980年代になってからのことでした。おりしも、広くポストモダンが喧伝されはじめた時代でもありましたし、美術でいうと、ニューペインティング、新表現主義、トランスアヴァンギャルドといった言葉が飛びかう時代でもありました。そういった風潮と連動する芸術実践を、雑誌や新聞などで取りあげたり、展覧会で企画したりしたのを覚えています。当時のわたしが用意した批評用語は、トランスアートという大ざっぱなものでしたが、この造語は、その後も、いくつかの展覧会などで使われました。
また、もっと特殊なあり方を名ざすために、軟体構築という造語も用いました。中原浩大に代表されるグニャグニャしたような立体作品のことが念頭にあったのですが、のちに意味合いを変えて、森村泰昌の仕事に適用することにもなりました。
20世紀の末から現在にいたるまで、やはり特殊なあり方かもしれませんが、「まぶさび」という造語で名ざしたい芸術実践にも着目しています。これは、主として透明素材の活用によるデリケートな感性過剰性にかかわるものです。
造語による名ざしは、批評が行なう「語り分け」が端的なかたちで現われたものでしょう。また、展覧会の企画や展示作業のような、既存作品の「使い分け」もまた、広義の批評活動に含められるかもしれません。そういった広義の批評活動は、解釈過剰性にかかわります。そういったことどもについて、具体例を挙げながら、触れていければと思います。
参考までに、美学と芸術批評に関する拙著を以下に挙げておきます。
- 『漂流思考』弘文堂、1987年(講談社学術文庫、1998年)
- 『トランスアート装置』思潮社、1991年
- 『トランスエステティーク――芸術の交通論』岩波書店、1992年
- 『五感の芸術論』未来社、1995年
- 『まぶさび記』弘文堂、2002年
- 『差異の王国――美学講義』晃洋書房、2013年
美学と批評
谷川 渥
カントは、その『判断力批判』(44節)において、「美の学があるのではなく、美の批判だけがある。また美的な学があるのではなくて、美的な技術だけがある」と述べている。逆説的ともいうべき近代美学の基点である。
とはいえ、カント以来、「美の学」ならぬ「美の批判」としてであれ、あるいは「美的な技術(芸術ないし美術)」についての理論的言説としてであれ、「美学」の名のもとに学としての自立をめざす努力が連綿として続けられてきたことはまぎれもない事実である。その一方で現実に芸術作品に具体的に言葉を関わらせる美術批評なる活動が存在する。1937年にパリで開かれた「美学および芸術学国際会議」に招待されて「美学についての演説」をぶったポール・ヴァレリーは、「美学は存在する、のみならず美学者さえも」と皮肉ったけれども、同様にわれわれは、「美術批評は存在する、のみならず美術批評家さえも」ということもできるわけである。
ヴァレリーは、「美学(エステティック)」を「制作学(ポイエティック)」と「享受学(エステジック)」とに解体することを提唱してみせたが、その背景には、作品はみずから作ったのではない者に真にわかるはずがない、作者自身が最上の理解者であり批評家である、との芸術家特有の矜持があったように思われる。それゆえもし「制作学」が可能であるとすれば、それは芸術家自身の制作に対する意識的反省という形のものでしかありえないことになる。作品生成過程をコギトの眼差しのもとに置くことこそが「制作学」の核となろう。
だが、われわれは、ヴァレリーがみずからの詩作について語った言葉が、舞踊や建築や絵画について語った言葉以上に必ずしも生彩に富んでいるとは思えないのは何故かと問うことができよう。ここでサルトルを引こう。「私の〈我れ〉は、意識にとって、他の人々の〈我れ〉よりもいっそう確実であるということはない。ただいっそう親密なだけである」(「自我の超越」)。これをランボー風に「〈我れ〉とは一個の他者である」と要約してもいい。要するに、ヴァレリー流の「制作学」が可能だとしても、それは決して他の人々の「制作学」よりもいっそう確実だということはない、ただいっそう親密なだけである。
オスカー・ベッカーのように「芸術家は自分自身の亜流である」とまで強い言葉を用いずとも、「作品に対しては芸術家自身も他者である」ということになろう。作品に対する芸術家自身のこの他者性こそが、一般に芸術なるものに言葉を関わらせることの可能性の根拠ではあるまいか。
語ることにおいて、芸術家とそうでない者、制作者と非制作者とのあいだには、なんらア・プリオリな差異は存在しない。「作品」に対してはすでに誰もが他者である。語られるロゴス自体が問題となるばかりである。
では、いかなるロゴスが?
美術批評と美術制作の比較
布施 英利(東京藝術大学)
現代において、「批評」あるいは「批評家」というスタンスや肩書きには、負のイメージが強い。
批評家の小林秀雄は、若い頃に小説を書いていたが挫折した。いわば小説の分野での「負け組」である。そこで生活するために原稿を書き、切り開いた道が批評であった。もちろん、小林秀雄ほどになれば、そこらの小説家以上の、広い意味での大文豪である。しかし、その出自が負け組である事実に変わりはない。文学の分野でなく、美術においても、批評の位置には似た所がある。
そもそも、「批評家みたい」という言い方は、現代にあっては、悪口や軽蔑でしかない。「なにもしない人は、批評家になる」。そんな文章を目にしたこともある。ここでいう批評家とは「口だけの人」という意味であろう。
また批評家の側にも、「評論家・批評家」の呼称を避けたいという心理もある。スポーツ選手が引退すると、野球評論家などとして活動をする場合があるが、それに対して、知性と言葉の技術を磨くことに賭けてきた批評家は、同じ「評論」の名で括られることを嫌う。そこで「評論」でなく、「批評」と用語を代えてはみるが、本質は変わらない。
江藤淳は、その著『小林秀雄』で、こう書いた。「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか。あるいは、人はなにを代償として批評家になるのであろうか」。
たしかに、人は何を代償として批評家になるのか。おそらく、はじめから批評家になりたいと思う若者は希有であろう。小説家や画家になりたくても挫折して、批評の道に進む人はいるだろうが、批評家になろうとして挫折して、小説家や画家になる人というのは、あまり考えられない。批評あるいは批評家という立場は、弱い。
また学問の世界に目をむけて、批評と比較してみると、実証的な人文科学などからみれば、批評などというものは、主観的な自己主張に過ぎない、と軽蔑される。たしかに小林秀雄の批評を読んでも、その論理は乱暴で、批評とは「丸いものを三角だと言い切る、言葉の技術だ」と思えてこなくもない。
美術を制作する者たちに対しては、批評は文学だ、という開き直り方もあるかもしれない。絵具や粘土で美の世界をつくる芸術のように、批評は言葉で世界を組み立てる文学なのだ、と。セザンヌは「林檎」をモチーフに絵を描いたが、批評家は「セザンヌの絵」をモチーフに文章を書く。林檎と絵と、どちらが高級かなど、決めることはできない。いや、林檎やヌード・モデルなどという野蛮なものと格闘しているような画家や彫刻家よりも、芸術作品に取り巻かれている批評家の日常のほうが、高尚で優雅だ、と開き直ることもできる。
しかし、批評家が開き直っても、その声が、批評家の外の世界に届くとは限らない。
このシンポジウムでは、このような批評家の負のイメージを問うことから、議論を始めることにしたい。
記述と意味
本江 邦夫(多摩美術大学)
ルドン、ゴーギャンを中心とするポスト印象派の若手の研究者だった私が縁あって東京国立近代美術館(竹橋)に奉職したのは1976年秋、28歳のときだった。その時点では研究者の意識が強く、美術の現場と関わりあうつもりはまったくなかったが、「近代」(modern)のなかには「現代」(contemporary)も内包されるという自覚から、生来の好奇心も手伝い銀座界隈の「現代美術」の画廊を定期的に見るようになった。まだもの派や概念芸術に勢いがあった頃で、見るものすべてが珍しく、というか奇妙に難解で、目の喜びがまったくないことに当惑させられた。
かといって、そうしたふつうの美術史から見れば異形のものが無意味だとか、ことさらに反体制的でいかがわしいものだとか、そんな風にはまったく思わなかった。現代社会を文脈とした、その存在理由については何の疑問も感じず、説明を求められれば、おそらく通り一遍であったにせよ、それなりの言辞は吐きえたであろう。しかし、存在理由は必ずしも作品の意味とはならない。
そのとき私が切望していたのは、何の理屈も背景もなく、一目で感動しうる「美しい」作品だった。これは裏を返せば、普遍性を標榜する「現代美術」といえども内実は意外に村社会的で党派的だということである(これは今も変わらないだろう)。感動とか、美しいとか、こうした決まり文句が美学的にはじつにきわどいものであることを承知の上で、なおも私がそこにこだわりたいのは――ここでもきわどい表現を使うが――そうした美のある種の原初性が瞬間的に到来することで、それが記述の契機となり、はじめて作品をめぐる意味の回路が(ときには行方も知れず)走りはじめるという全き事実があるからである。
ポスト印象派の篤実であるべき一学徒にすぎなかった私は、美しき他者つまり作品を前にして、予備的な知識も概念もなく、すこぶる私的なものであるとはいえ、みずからの言説を紡ぎ出さざるを得なかった。これはより具体的には、70年代末に『美術手帖』の「展評」を1年間担当し、毎週見て歩く中から毎回400字詰原稿用紙10枚の記述を生み出す課題に自らを投じたということである。そのさいに実感したのが、作品の記述は意味であり、意味は記述であることの両義性だった。Dantoならば作品の実状と、それをそれと同定すべき言語との「内的連関」(an internal connection)と言うであろうこの両義性ゆえに、これが邪魔をして、私たちは疾走する風景のごとき作品と作者にいつも届かないのである。
作品から私たちは宿命的に遠い。いわば川向こうに見えている美しき他者に呼びかける(ときに虚しい)言葉の羅列――これは意味の一つの表現である。そして私たちは、ダフネを捉えたとたん、それが自らの腕のなかで月桂樹へと変ずるのを目の当たりにせねばならない、永遠に挫折を宿命づけられた、ゼウスほどではないにせよ好色な、つまりは審美的なアポロンでしかないのである。
〈当番校/美学・藝術論研究会共催企画 シンポジウム2〉続・裸の王様――妄想と制度をめぐって――
概要
アンデルセンの寓話「裸の王様」には「王様」「大臣」「仕立て屋(いかさま師)」「子供(王様は裸だ!と叫ぶ)」「群集」などが登場しますが、この童話には共同幻想的な振る舞いや制度、体裁に対する各々の態度が示唆されています。一方で1960年代後半より展開された「コンセプチュアル・アート」は、狭い意味での制度ではなく、あらゆる概念や認識に関わる根底的な問いを孕んでいましたが、時に「裸の王様」のような美術と指摘された中で「制度批判にすぎない」「観念的だ」など制度に準ずるかたちで受容されてしまっている側面が見られます(「制度」による保証/システムがなければ「妄想」を見ることができない)。われわれが生きる現在において「裸の王様」なるもの(事態)はどこに遍在しているのでしょうか。コンセプチュアル・アートの特性を有する実践をなしている橋本聡、豊嶋康子のふたりを交えて、今日に敷衍される「裸の王様」の問題圏について議論します。
※ シンポジウム2のみの参加は無料です。どなたでもご自由にご参加ください。
セッション
登壇者 | 橋本聡 粟田大輔(comos-tv) |
パラハラクソン・ト・ノミスマ――橋本聡における「独断」 |
豊嶋康子 神山亮子(府中市美術館) |
豊嶋康子における批評的距離――「私」の問い | |
司会 | 神野真吾(千葉大学) |
日時・会場
日時 | 2013年10月14日(月・祝) 13:30-16:00 |
会場 | 音楽学部5号館 5-109 |
作家解説
パラハラクソン・ト・ノミスマ――橋本聡における「独断」
粟田 大輔(comos-tv)
アンデルセンの寓話「裸の王様」には、偽仕立て屋(いかさま師)の指示(インストラクション)のもとで「見えない衣服」が共同幻想のごとく受容されるさまが描かれているが、この物語には制度や権威、体裁に対する問いかけが示唆されている。
他方、ソル・ルウィットは1967年に記した「コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ」の中で、「完成作品」よりも「構想と具現化のプロセス」に関心を向けたコンセプチュアル・アートを表明する。こうした動向は、批評家のルーシー・リパードなどによって「芸術の非物質化」と称されるが、形体・色彩などのリアリズムを停止させるアンチ・フォーマルの指向のほかに、作品が物質/商品として生産/流通する状況(制度)に対する批判なども含意していた。
ただし、今日から顧みて「非物質化」を指向した作品群が、美術館制度あるいは資本主義システムにおいて依然「物質」として回収されてしまうような現状の中で、コンセプチュアル・アートは、単に物質か否か、あるいは視覚的か否かといった二者択一に収斂されない、あらゆる概念や認識に関わる根底的な問いを孕んでいるのではないか。それは、たとえば「貨幣 nomisma」のような共同幻想にもとづく「規範 nomos」への問いかけとしても捉え直されるように思う(われわれの社会では「規範」による「登録」にもとづき「収蔵/管理/保存」といった制度的機能が執行/維持されている)。
橋本聡の作品は、こうした「規範」に対して「独断」を介入させる。《Wake up. Black. Bear.》(2006)では、自らが奴隷のように鎖に繋がれると同時に可動式の壁(パーテーション)を押すことで部屋を分割する「家政管理人 oikonomos」としての姿が見られるが、観客との間にスペースを与える/奪うなど、彼自身の「独断」による「与奪」といった事象が織りなされる。また「家 oikos」への指向は、近年「貨幣」や「経済」への指向へと敷衍される。「あなたのコンセプトを私に売って下さい」(2011)や「私はレオナルド・ダ・ヴィンチでした。魂を売ります。天国を売ります。」(2013)では、「独断」のもと「他者のコンセプトを買い取る」あるいは「魂や天国を売る」といった事態が繰り広げられる。
こうした「独断」は、キュニコス派のディオゲネスによる「パラハラクソン・ト・ノミスマ(世間で流通している慣例、制度、しきたりを造り変えよ)」といった思想(態度)をも想起させる。ディオゲネスは、当時偽造通貨が出回った中で「通貨変造」をなしたという逸話で知られるが、その根底には「偽りのノミスマ」に対する義憤や挑発があった。あらゆる概念や認識に関わる根底的な問いを含意するような橋本の掲げる世界像とはいかなるものか、本シンポジウムで問いたい。
豊嶋康子における批評的距離――「私」の問い
神山 亮子(府中市美術館)
豊嶋康子は1967年生まれ。東京藝術大学在学中の1990年の個展(東京)、セゾン現代美術館(長野)のグループ展から出発し、以後変わらぬスタンスで表現活動を続けている。90年代前半は、回答部分を残して塗りつぶしたマークシート、桁を無限に拡張したソロバン、熱で捻じ曲がった定規、真ん中で削られ芯を露にした鉛筆など、既成品の機能を損傷、無化、肥大化することで、物の使用から生じる主体への規制の領域を明らかにして見せた。
1990年代半ば以降は、経済活動が主要なモチーフとなる。少量の株券を複数銘柄購入し継続して保有し、株価の推移を報告する《ミニ投資》、全国の銀行で口座を作る《口座開設》、小額の金銭の振込みを複数の銀行間で継続する《振り込み》、展覧会のスポンサーである生命保険会社の保険に加入し証書を提示する《生涯設計》。これら作品の制作は、金融機関の破綻が続いたバブル崩壊後の時期と重なり、結果として大きく構造変化する日本経済を、「私」の視点から先鋭的に描き出した。
2000年以降は、自身の過去の成績表や賞状、受けとった手紙の宛名等を集めて展示し、外部からの自己規定の作用を繊細に描写することを試みる。また、小さな陶器のかけらから元の造形を勝手に復元する《捏造》、偏った光の下で正しい色を判定し、全く個人的なカラーチャートを形成する《色調補正》、展示会場に吊るしたクス玉を会期終了後に割る《固定/分割》など、より個の生理や社会的行為の内側に目を向け、そこに組み込まれている行動や思考の「倣い」とも呼ぶべきものを対象としている。
そしてこの2年ほど豊嶋康子は、八百長問題に巻き込まれた内モンゴル出身力士の不当解雇撤回と土俵復帰を求める運動に加わり、署名活動に集中した(2013年3月末に力士側が勝訴、幕内復帰となる)。はじめ自身を匿名の相撲ファンとして位置づけていたが、活動の実効性を高めるために、美術家という肩書きと本名を公表。さらにギャラリーとウェブサイト上で、《署名活動》を作品として実現した。「人間の在り方すべてを『表現』として一元的に捉えている」豊嶋康子にとって、「最も表現したいこと、伝えたいこと」であった署名活動を、美術の領域で行なうことは、思想的に一貫している。同時に、他者の社会復帰という目的が自己の表現とは別に設定されるという点で、美術と相撲というジャンル間を超える以上の大きな飛躍が生じているように思われる。
自己を規定するさまざまな制度への違和感であったり、妄想であったりが、豊嶋康子の制作の主たる動機となってきた。その判断に対する信頼が、おそらく作品を見る側には生じている。他者が加わることが、この信頼関係に影響を及ぼすか否かは、今後の展開の焦点のひとつとなるだろう。