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《藤田嗣治資料》(教育研究資料3) カテゴリーリスト・資料一覧へ 検索画面へ クリックで詳細情報の表示/非表示を切替えます
《藤田嗣治資料》の概要と公開にあたって
本資料は、藤田嗣治夫人であるFOUJITA Kimiyo氏のもとに残された遺品で、2010年に本学に一括寄贈されたものである。 5,808件に及ぶ資料には、1930年から1968年までの日記(1941-1946年を除く)や手稿・書簡、藤田が撮影した写真や映像、また彼が制作の助けとしたであろう19世紀から20世紀までの画家たちのドローイングなどが含まれており、藤田の生涯と創作活動を明らかにするための貴重な一次資料となっている。 東京藝術大学大学美術館では、本資料の整理をすすめ、この度資料一覧を公開する運びとなり、あわせて所蔵品データベースにおいて検索することが可能となった。 なお、本資料の一覧及びデータベースは、文部科学省科学研究費補助金(2012年度〜2015年度)「遺品調査による藤田嗣治研究ー君代夫人旧蔵資料のアーカイヴ化と公開ー」(基盤研究(B))の成果の一部として公開するものである。 《藤田嗣治資料》の総数と特徴 総数:5,808件 特徴:本資料は藤田嗣治の幼年期から最晩年までの長期にわたる資料によって成立しているが、なかでも1930年代及び、1950年代以降の資料が多くを占める。また写真資料の占める割合が大きい。 《藤田嗣治資料》の分類・整理について
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藤田嗣治 略歴 藤田嗣治(1886-1968)は、東京生まれの画家。熊本で幼少時代を過ごす。東京美術学校西洋画科を卒業後渡仏し、モンパルナスにアトリエを構える。パリでは、乳白色の地と繊細な線描による作品が高く評価され、名声を得た。1929年に帰国、翌年パリに戻った後、北米南米を旅し、1933年に再度帰国。海軍省嘱託となり、従軍画家として中国大陸に赴く。1939年に再渡仏するも、翌年帰国。以後、帝国芸術院会員となり、陸軍省の依頼により各地の戦線に派遣され、大画面の戦争記録画を多数描いた。戦後は再び渡仏、1955年に日本国籍を抹消してフランス国籍を取得、1959年にはランスの大聖堂で洗礼を受け、レオナール・フジタと改名した。1961年にはパリ郊外のヴィリエ=ル=バクルの農家を購入、改造してアトリエ兼住居とした。1966年、ランスに礼拝堂を建設、ランス市へ寄贈。1968年、スイスのチューリッヒ州立病院で死去。 | |
ガラス乾板・紙焼き写真資料 検索画面へ クリックで詳細情報の表示/非表示を切替えます
ガラス乾板・紙焼き写真資料の概要
本資料は、文部科学省科学研究費補助金(2013年度〜2016年度)「東京美術学校収蔵写真の研究 ー明治期の古写真・ガラス乾板から見る美術教育ー」(基盤研究(B))により整理を行った、東京藝術大学が所蔵しているガラス乾板・紙焼き写真資料である。 東京藝術大学所蔵のガラス乾板は、種別「写真種板」として、東京藝術大学大学美術館収蔵品台帳に記載されている。その記載によると、東京美術学校開校から間もない時期にガラス乾板の収集が開始されていたことがわかる。この度、全ガラス乾板の個別調査を行い、10,706枚のガラス乾板の所在を確認した。 紙焼き写真資料の収集も同様に、東京美術学校開校直後の時期にまで遡ることができる。写真の収集は現在も継続されているが、このうちガラス乾板資料との関連が強いと考えられるものを重点的に調査研究することとした。 10,706件のガラス乾板は、個別包装を行った上で保存容器に収納し、妥当な温湿度環境に保管することで収蔵環境の改善を図り、同時にデジタル化を実施した。また、個別に新旧の物品番号、新旧の保存箱番号、旧保存箱の書き込み情報、ガラス乾板の保存状態、乾板の画面に写り込んでいる文字情報、ガラス乾板の乳剤面およびガラス面に書き込まれた文字情報の記録を行った。さらに、被写体を可能なかぎり特定した上で、分類ラベルを付与した。 紙焼き写真は、ガラス乾板資料との関連が深い資料をデジタル化した。また、個別に、写真に写り込んでいる文字情報、写真台紙に記された書き込み文字情報の記録を必要に応じて行った。さらに、被写体を可能なかぎり特定した上で、分類ラベルを付与した。 この度資料一覧を公開する運びとなり、あわせて所蔵品データベースにおいて検索することが可能となった。 ガラス乾板・紙焼き写真資料の総数と特徴 ガラス乾板総数:10,706点 紙焼き写真総数:508件 特徴:本資料は明治期から昭和初期頃にかけて収集された資料である。 凡例
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